人は、ときどき自分の名前を呼ばれて、振り返る。
それが自分の名前だと知っているからだ。
けれど、振り返った先にいる自分が、いつも同じ人間だとは限らない。
子どもの頃の自分を思い出すことがある。
あの頃は、何かになろうなんて考えていなかった。
ただ、面白そうだから走った。
欲しいから手を伸ばした。
嫌だから泣いた。
嬉しいから笑った。
世界は今よりずっと大きくて、自分はその真ん中にいた。
ところが、大人になるにつれて、少しずつ変わっていく。
走る前に考えるようになる。
手を伸ばす前に、届くかどうかを考える。
泣く前に、泣いていい理由を探す。
笑うときでさえ、周りを気にする。
そうしていつの間にか、
「自分は、こういう人間だから」
という言葉を、自分自身に言い聞かせるようになる。
臆病だから。
飽きっぽいから。
才能がないから。
もう若くないから。
今さら遅いから。
そういう言葉は、最初はただの説明だったはずなのに、いつしか檻になる。
しかも、その檻には鍵がない。
出ようと思えば、いつでも出られる。
なのに、出られない。
なぜなら、その檻を作ったのが他人ではなく、自分だからだ。
僕は、ときどき思う。
人は、自分のことを知りすぎているのではなく、むしろ知らなすぎるのではないか、と。
自分の誕生日を知っている。
好きな食べ物も知っている。
これまで何をしてきたのかも知っている。
失敗したことも、傷ついたことも、誰かに言われた言葉も覚えている。
だから、自分のことを一番よく知っていると思っている。
けれど、それは少し違う。
知っているのは、
これまでの自分なのだ。
これからの自分については、ほとんど何も知らない。
明日、何を好きになるのか。
誰と出会うのか。
何に心を動かされるのか。
どんな場所で、どんな言葉に救われるのか。
どんな夢を抱くのか。
そして、どんな自分になっているのか。
そんなことは、誰にもわからない。
もちろん、自分にもわからない。
それなのに僕たちは、とても簡単に自分を決めてしまう。
「僕は、こういう人間だから」
その一言で、まだ見ぬ未来まで閉じてしまう。
不思議な話だ。
昨日までの自分が、明日の自分の許可証を握っている。
でも、本当はそんな必要なんてない。
昨日の自分には、明日の自分を決める権利なんてない。
昨日は昨日の時間を生きただけだ。
今日の自分には、今日の時間がある。
そして明日の自分には、明日の時間がある。
だから、変わっていい。
昨日まで大切だったものを、手放してもいい。
ずっと嫌いだったものを、好きになってもいい。
諦めた夢を、もう一度拾い上げてもいい。
一度捨てたものを拾うのは、負けではない。
むしろ、自分の心がまだそこに何かを残していたことに気づく瞬間なのだと思う。
道端に落ちている小さな石を拾うように、
昔の自分が置いてきたものを、
もう一度手のひらに乗せてみる。
そのとき、少しだけ懐かしい。
けれど、完全に同じではない。
あの頃欲しかったものを、
今の自分は別の意味で欲しがっているかもしれない。
あの頃の夢は、夢そのものではなく、
「自分にも何かできると思いたかった」
という気持ちだったのかもしれない。
そう考えると、過去は消えない。
過去の意味だけが変わっていく。
人生というものは、過去を書き換えることではなく、
過去の読み方を書き換えていくことなのかもしれない。
失敗だったと思っていた出来事が、
あとになって誰かの気持ちを理解するための経験になっていることがある。
遠回りだったと思っていた時間が、
あとになって必要な余白だったと気づくこともある。
何もできなかったと思っていた時期が、
実は何かを耐え抜いていた時間だったりする。
人間は、現在にいるときには人生の意味がわからない。
意味は、ずっとあとから追いついてくる。
だから今、意味がわからなくてもいい。
答えが出なくてもいい。
立ち止まっている自分を、失敗作のように扱わなくてもいい。
まだ途中なのだから。
僕たちは、完成した人間として生まれてきたわけではない。
毎日少しずつ、自分というものを作りながら生きている。
だから、
「本当の自分を見つける」
という言葉にも、僕は少し違和感がある。
本当の自分なんて、最初からどこかに完成品として置かれているわけではない。
探し当てるものではなく、
生きながら出会っていくものなのだと思う。
知らない場所へ行ったとき。
知らない人と話したとき。
怖いことに挑戦したとき。
誰かを好きになったとき。
誰かと別れたとき。
自分でも驚くほど腹を立てたとき。
思いがけないことで涙が出たとき。
そんな瞬間に、
「ああ、自分ってこんなふうに感じるんだ」
と、初めて自分に出会う。
鏡の中には、いつも同じ顔がある。
けれど、その顔の奥にいる人間は、毎日少しずつ違う。
昨日より臆病になっているかもしれない。
昨日より優しくなっているかもしれない。
昨日まで許せなかったことを、今日は許せるかもしれない。
昨日まで怖かったことに、今日は手を伸ばせるかもしれない。
人は、そうやって静かに変わっていく。
大きな音を立てて変わるわけではない。
朝、カーテンを開けたときの光のように。
気づけば部屋の中まで届いている。
昨日と同じ朝なのに、少しだけ違って見える。
そんなふうに、自分も変わっていく。
だから僕は、
「あなたらしく生きればいい」
という言葉を、少しだけ疑っている。
あなたらしさというものを、過去の自分だけに決めさせたくないからだ。
あなたは、あなたの予想を裏切っていい。
周りから見たあなたを裏切っていい。
「そんな人だと思わなかった」
と言われてもいい。
むしろ、その言葉の中には、新しい自分が生まれた証拠があるのかもしれない。
誰かの期待に応え続けていると、いつか自分の声が聞こえなくなる。
「あなたはこうだよね」
と言われる。
「そうだね」
と笑う。
本当は少し違う。
でも、説明するのが面倒で、そのまま頷いてしまう。
そうして何度も頷いているうちに、
「本当はどうなんだろう」
という自分の声が、小さくなっていく。
だから、ときどき立ち止まっていい。
静かな場所で、自分に問いかけてみればいい。
今、何がしたいのか。
何を恐れているのか。
何を諦めようとしているのか。
そして、
何を、まだ諦めたくないのか。
答えがなくてもいい。
問いかけるだけでいい。
自分に問いかけるということは、
「あなたの声を、僕はまだ聞くつもりだ」
と、自分自身に伝えることだから。
長い人生の中で、僕たちは何度も自分を置き去りにする。
仕事のために。
家族のために。
誰かの期待に応えるために。
生きることに精一杯で、自分の気持ちを後回しにする。
それは決して悪いことではない。
誰かを大切にすることは、美しいことだ。
けれど、誰かを大切にするあまり、
自分の存在を消してしまってはいけない。
あなたの人生には、あなたの席がある。
誰かに譲らなくていい。
誰かが座っているからといって、立ち続けなくていい。
疲れたなら、座ればいい。
泣きたいなら、泣けばいい。
何もしたくないなら、何もしない時間を持てばいい。
そして、また歩きたくなったら歩けばいい。
人生は、ずっと前進し続けなければならないものではない。
立ち止まることも、戻ることも、遠回りすることも、その人の人生に含まれている。
むしろ、真っ直ぐすぎる道では見えなかった景色が、曲がった道の先で見つかることだってある。
今の自分を急いで評価しなくていい。
「まだ何者にもなれていない」
と思う日があったとしても、
何者かにならなければ価値がないわけではない。
名前のない時間にも、意味はある。
花が咲いていない季節にも、根は生きている。
地上から見えないからといって、何も起きていないわけではない。
人間だって同じだ。
何も変わっていないように見える時間に、心の奥では何かが育っている。
そしてある日、ふと気づく。
「あの時間があったから、今の自分がいるんだ」
そう思える日が来る。
そのとき初めて、過去の自分に少しだけ礼を言える。
よく頑張ったな、と。
あのときは何もわからなかったけれど、
それでもよく生きていたな、と。
僕は、そんなふうに自分と仲直りしていけばいいのだと思う。
自分を好きになる必要なんて、いつもはない。
好きになれない日があってもいい。
ただ、自分を嫌いなまま見捨てないこと。
それだけでいい。
「今日は嫌いだけど、明日また会おう」
それくらいの約束でいい。
だって、自分とは別れられない。
どこへ逃げても、最後には自分がいる。
だったら、敵にするより、隣に座らせたほうがいい。
黙っていてもいい。
話さなくてもいい。
ただ隣にいて、
「まあ、今日はこんな日だったな」
と、一緒に夜を迎えればいい。
そして朝になったら、
「じゃあ、もう一回やってみるか」
と、また歩き出せばいい。
人生には、何度でも朝が来る。
そのたびに、昨日までの自分とは少し違う自分がいる。
同じ名前。
同じ顔。
同じ身体。
それでも、もう昨日の自分ではない。
だから、
「私は誰なんだろう」
と迷ったときは、答えを急がなくていい。
あなたは、あなたを探している最中なのだから。
そして、たぶん。
探しているあなたのすぐ隣には、
まだ会ったことのないあなたがいる。
ずっと待っている。
あなたが、
「もう決めなくていい」
と、自分を許してくれる日を。
「変わってもいい」
と、自分に言える日を。
「こんな自分も、悪くない」
と、少しだけ笑える日を。
そのとき、ようやく気づくのかもしれない。
探していた「本当の自分」は、
どこか遠くにいたわけではなかった。
ずっと自分の中にいた。
ただ、こちらが忙しすぎて、
名前を呼んでいなかっただけなのだ。
だから今度は、呼んでみよう。
小さな声でいい。
誰にも聞こえなくていい。
自分にだけ届けばいい。
「ねえ」
と。
そして、もし胸の奥から返事が聞こえたなら、
それはきっと、
私という名の、あなた。
まだ知らないあなた。
これから出会うあなた。
昨日の自分にはなれなかったあなた。
今日の自分にも、まだなれていないあなた。
その人は、未来のどこかで待っているのではない。
もう、ここにいる。
あなたが一歩踏み出すたびに、
少しずつ、その姿を現していく。
だから、完成しなくていい。
何度でも、知らない自分になればいい。
人生とは、
「自分になること」ではなく、
「自分ではないと思っていた自分に、何度も出会うこと」
なのかもしれない。
そして最後まで、自分のことを完全にはわからないまま生きていく。
それでいい。
わからないから、面白い。
わからないから、明日がある。
わからないから、
まだ、あなたに会える。
私という名の、あなた。
今日もまた、
少しだけ知らないあなたになっていこう。



いつも不思議に思うのは、人は、どうして過去の話ばかりするんだろう?どんなに考えても過去は変わらないのに。未来はいろんな未来の中から選ぶことができるのに。
チートンさん、おはようございます。
「人は、自分のことを知りすぎているのではなく、むしろ知らなすぎるのではないか」確かにそうかもと思いました。
自分をよく知る前に、自分はこういう人間というレッテルを貼っている気がします。
もっと自分を観察して、新たな自分を発見して、ワクワクと楽しみたいと感じました。
心に響く記事をありがとうございます🎶